2009年06月25日

中立を維持していたスイスだが

大戦中は、中立を維持していたスイスだが、スイスの中立にも負の側面があったことを否定することができない。1点目は、ホロコーストから逃れたユダヤ人の亡命問題と財産の返還の問題である。2点目は、ナチス略奪金塊問題である。

大戦中に30万人に近い亡命者を受け入れた。スイスの人口に比較すればかなりの人数の亡命者を受け入れた形であるが、他方で、「救命ボートは満員だ」として、ユダヤ人の入国を認めなかった。その人数は亡命が認められた数が21,858人であったのに対して24,000人が断られた。
大戦中にドイツは、中立国を中心に各国と金塊の取引を行ったが、その約8割はスイスとの取引であった。問題は、金塊の出所であり、すでに1941年の段階で、占領下においたベルギーからの略奪品であろうという情報が広まっていたにもかかわらず、スイスは1943年までドイツの金を受け取り、スイスフランと交換していた。事実上、スイス中央銀行は略奪金塊の「洗浄装置」の役割を果たしていた。[38]
この他にもスイス領の町をドイツ領の町と間違えられたためにスイスの一般市民がアメリカの爆撃機により誤爆されたことが挙げられる。この誤爆では、死者40人、負傷者多数を出したという。

大戦中はバチカンは中立を維持していた。しかし大戦勃発直前に教皇に登位したピウス12世はナチスのホロコーストを黙認したと非難されることがある。イスラエルはピウス12世はユダヤ人を保護したとして評価しているが、「教皇がナチスを非難していればホロコーストの犠牲者は少なくなったはず」との声も根強い。さらにピウス12世は死後ヨハネ・パウロ2世によって列福されたことが、さらに波紋を呼んでいる。また、大戦終結時に多くのナチス党員がドイツから逃亡するのに対して、バチカンが有形無形の援助を行ったとの証言がある。

スウェーデンは、ナチス・ドイツのチェコスロバキア併合を目の当たりにした頃から危機意識を強め、スウェーデン社会民主労働党政権の元で大規模な軍備の増強を行っていた。すでにスウェーデンは、ナチスの台頭によって開戦は避けられぬものと考えていた。1939年にナチスは、スウェーデンとデンマーク、ノルウェーに対し不可侵条約を申し入れたがスウェーデンとノルウェーは拒否する。[39]1940年、ナチス・ドイツが不可侵条約を破棄し北欧に宣戦布告(北欧侵攻)するとスウェーデンは他国への援助を一切拒否し、武装中立を貫いた。しかし戦後、スウェーデンの中立は利己的なものとして非難されている。開戦期には、枢軸国寄り、後期は連合国寄りである。もっとも単なる中立ではなく、両者に対する和平交渉仲介も行った。
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武装中立政策を取っていたものの、第一次世界大戦時と同様義勇軍を組織していた。なお、戦火に見舞われた近隣のデンマークやノルウェー、フィンランドのレジスタンスを匿うと同時にユダヤ人を保護したことはその後大きな賞賛を受けた。
武装中立化においてスウェーデンは、50万人の国民軍を形成することに費やした。これによってナチスの侵攻を食い止めることを前提とするものであった。しかしスウェーデン政府は、上記の通り、ナチスに対する義勇軍を黙認し、デンマーク、ノルウェー、フィンランドに対するレジスタンスの保護及び支援を行い、ナチス・ドイツの敗勢以後は連合国との連係を強め、最終的には連合軍の勝利に貢献した。ただしこの中立は、初期にはナチスに譲歩し、後期は連合国の要求に応じるなど中立性に欠けるものとして、戦後、国内外から非難された。
大戦期にスウェーデン政府は外交交渉を頻繁に行った。対戦初期、ナチス・ドイツの侵攻に対し、ナチスと面識のある元探検家スヴェン・ヘディンをドイツへ派遣し、直接ヒトラーからスウェーデン侵攻の意図が無いことを確認させることに成功した。大戦末期には大日本帝国と連合国に対するスウェーデン外務省仲介による和平交渉も行っている。また、スウェーデン王家の一族であるスウェーデン赤十字社副総裁フォルケ・ベルナドッテを通じて、ヒムラーと和平交渉も行っている。さらにフィンランド救済のためにソ連との和平交渉仲介も行われたが、結果的にスウェーデンの和平交渉はすべて失敗に終わった。1944年にはラウル・ワレンバーグによるユダヤ人救出も行われた。
スウェーデンの軍備拡大は必ずしも対ナチス・ドイツを対象としたものではなく、中立を宣言した様にナチスに対し敵愾心を持っていた訳ではなかった。戦争開始時点では、ソ連のフィンランドに対する圧力に重点がかかっており外交にもそれが優先されていた。ソ芬戦争においては、ナチスの支援の元、フィンランドとの軍事同盟が構想されていた。しかしソ連の抗議によって破談する。ナチス・ドイツが北欧侵攻を開始したことでスウェーデンは中立を余儀なくされたのである。[40]しかし大戦後は、伝統的な武装中立に回帰し、対ソ連への外交戦争が開始されるのである(ノルディックバランス)。スウェーデンの外交戦略はすでにナチス・ドイツではなく、戦後の東西冷戦に向けられていたのである。

2009年06月10日

包括的自由権と法の下の平等

まず包括的な人権規定、包括的自由権である生命・自由・幸福追求権(13条)がある。プライバシーの権利、自己決定権などの新しい人権は、同条により保障される。また、14条では法の下の平等が定められる。同条2項は貴族制度の禁止と栄典に伴う特権付与の禁止を定める。同条のほか、24条では両性の平等が、44条では選挙人資格などの平等が定められている。
更年期障害
映画音楽
アルツハイマー病
オリエンテーリング
関節炎
人間工学
甲状腺疾患
環境工学
タップダンス
機械工学
原始時代
いざ・鎌倉時代
世界の建築
季節のこよみ
月の物語
湯・山梨
外国の物語
果実で美!
オレンジ活用

精神的自由
精神的自由のうち、内面の自由としては、思想・良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、学問の自由(23条)がある。20条1項(後段)及び3項は89条と共に、政教分離原則を定める。学問の自由からは、大学の自治および学校の自治が導き出される。表現の自由は21条に定められる。同条では、明文にある集会の自由・結社の自由・出版の自由や言論の自由のほか、知る権利、報道の自由・取材の自由、選挙運動の自由など、重要な人権が保障されている。また、同条2項では、検閲の禁止と通信の秘密が保障されている。

経済的自由
経済的自由としては、まず22条1項では、職業選択の自由を保障している。ここからは営業の自由が導き出される。また2項と共に、居住移転の自由、外国移住の自由、海外渡航の自由、国籍離脱の自由も保障されている。29条では、財産権が保障されている。

人身の自由
人身の自由は、まず18条で、奴隷的拘束からの自由が定められる。31条では適正手続の保障が規定される。刑事手続に関する詳細な規定は、日本国憲法の特徴とされる。これには、不当な身柄拘束からの自由(34条)、住居等への不可侵(35条)など被疑者の権利と、公務員による拷問及び残虐な刑罰の禁止(36条)、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利、証人審問権・喚問権、弁護人依頼権(37条)、自己負罪拒否特権(38条、黙秘権)、刑罰不遡及(39条)、二重の危険の禁止(一事不再理、39条)など被告人の権利がある。

大日本帝国憲法体制からの経験則として、英米法の経験則が導入された経緯がある。大日本帝国憲法では、法律によらなければ、逮捕・監禁・審問・処罰を受けないと定めていたが、実際には警察による拷問などが行われ、人身の自由の保障は不十分だった。

なお、人身の自由に関する憲法直接付属法は人身保護法(昭和23年法律第199号)である。この人身保護法に関する細則は、最高裁判所規則である、* 人身保護規則(昭和23年最高裁判所規則第22号)に定められる。同法及び同規則によれば、人身保護事件の審理は、原則として民事訴訟の手続で扱われる(規則33条、46条)。人身保護法は、人身の自由を拘束(人身の自由を奪ったり制限すること)をする者を、公務員・公的機関だけに限定していない。

受益権
受益権とは国務請求権ともいう。国民が国家に対し、行為や給付、制度の整備などを要求する権利である。受益権には、請願権(16条)、裁判を受ける権利(32条)、国家賠償請求権(17条)、刑事補償請求権(40条)などがある。

社会権
社会権とは、個人の生存・教育・維持発展などに関する給付を、国家に対し要求する権利である。社会権には、生存権(25条)、教育を受ける権利(26条)、勤労の権利、労働基本権(27条、28条、労働三権)などがある。

2009年06月06日

地植えに比べれば、培養土の容量が限られるので

地植えに比べれば、培養土の容量が限られるので地下部の生育には限度があり、そのため地上部も小型化することが多い(花は小型化しないことが多く、むしろ施肥などの管理に左右される)。しかし、むしろそれを積極的に利用することも多く、場合によっては盆栽のように、あえて小さめの植木鉢に植え、更に根を切り詰めたりして地上部の生育を抑制し矮小化させる技術も盛んに行なわれる(根を切り詰めるのは新根の発生を促す意味もある)。地上部も剪定したり成長抑制ホルモンを使用することもある。

栽培用、観賞用など、その目的に応じて材質は多岐にわたるが、特に陶磁器が非常に多い。中でも土器、陶器が多く、その理由としては保水、排水や通気のバランスがよいこと、美観的に植物によくなじむこと、直射日光や水に対して丈夫なこと、比較的安価で大量に供給ができることなどによる。特に釉薬をかけないものは通気が良く、鉢表面からの水分蒸散により鉢内が蒸れにくく、多くの植物の育成に適している。ただし乾きやすいこと、割れやすいことと美観に劣る欠点がある。育苗のためには、かつては素焼鉢や「駄温鉢」と呼ばれる堅目で桟の部分のみ上薬を塗ったものが主流であったが、現在はビニールポットが圧倒的である。また、パルプやピート(泥炭)をプレスして作った育苗用鉢もある。これらは時間がたつと次第に腐食して土と同化するので、植え替え時に抜かずにそのまま地植えしたり、更に大きな鉢に移し替えることができ、根を痛めることが少ない。ただしこれらは短期間しか使用できず繰り返して使うこともできない。

西欧の観賞用の植木鉢としては、庭園用には石や土器、青銅や鉄製のものが多かった。室内用としてはマヨリカなどの陶器のほか磁器や?器も多い。このほか七宝や、真鍮、銅、錫などの金属製や木製のものも見られる。まれにガラス製のものもある。

中国では景徳鎮などの磁器、宜興などの朱泥、紫泥器が盆栽や蘭の栽培用に作られている。日本では伊万里焼などの磁器、常滑焼の朱泥、信楽焼などが盆栽に、丹波焼の焼締、楽焼や信楽焼などの陶器が宿根草や古典園芸植物、山野草用に作られる。一般草花用の鉢も信楽のものが多い。このほか埼玉県や愛知県などの瓦や土管のメーカーによって作られている植木鉢もある。また軽石を整形して作られるものもある。
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現代では合成樹脂の発達により、プラスチック、ビニール製の植木鉢が増えている。安価で軽いなどの利点があるが、通気性、耐久性や高級感に乏しく、陶磁器製植木鉢を駆逐するまでには至っていない。しかし先述のように生産農家などではビニール製が大部分を占める。また屋外用のものとしてコンクリート製のものもあるが、石灰分を嫌う植物には適さない。

このほか、アワビ、シャコガイなど大きめの貝殻や、ヘゴの幹をくり抜いたり、ヤシ殻や竹筒等の自然物を利用することもある。

2009年04月23日

隋(ずい、581年 - 618年)

隋(ずい、581年 - 618年[1])は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一したが、第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(長安、現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。

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隋の皇室である楊氏は『隋書』に拠れば、後漢代の有名な官僚・楊震の裔だという。楊震という人物はかつての教え子が「誰も知らないことですから」と賄賂を渡そうとした所、「天知る、地知る、我知る、子(なんじ)知る。どうして誰も知らないと言えようか。」と言って拒否したという四知の逸話で有名な人物である。その後、楊氏は北魏初期に武川鎮へと移住し、楊堅の父・楊忠に至るという。武川鎮とは北魏に於いて首都・平城を北の柔然から防衛する役割を果たしていた軍事基地のひとつである

北魏において、皇室の拓跋氏を元氏に変えるといった鮮卑風の名前を中国風に改めるという政策が行われたことがあったが、北周ではこれに反発して、これを再び鮮卑風に改めた。この時、漢人である楊氏にも普六茹(ふりくじょ)という名前を与えられる。普六茹とは鮮卑語でヤナギのことである。

しかし実際には楊氏は鮮卑の出身であるという見方が支配的で、本来の姓(部族名)が普六茹であり、北魏の漢化政策の際に付けられた姓が楊であると見られる。

隋の建国まで
楊堅の父・楊忠は北魏が西魏・東魏に分裂する際(後にそれぞれ北周・北斉が取って代わる)に宇文泰に従って西魏の建国に貢献し、大将軍を務め、随国公の地位を得ていた。

568年に楊忠は死去し、楊堅が大将軍・随国公の地位を受け継いだ。北周の武帝は宿敵の北斉を滅ぼし、更に南の陳を滅ぼす前段階として北の突厥への遠征を企図していたが、576年に病死した。

武帝の後を継いだ宣帝は奇矯な人物で、5人の皇后を持っていた。このうちの1人が楊堅の長女である麗華であり、麗華は宇文闡を生んだ。後の静帝である。

宣帝の奇行は留まる所を知らず、在位8ヶ月で退位して静帝に位を譲り、自らは天元皇帝を名乗って政務を放棄したので、静帝の後ろに立つ楊堅への声望が高まっていった。580年に宣帝が死去すると、楊堅は摂政として全権を掌握した。

これに反発する武川鎮軍閥内の有力者たちは楊堅に対して反乱を起こす。この中で最も大規模なものが尉遅迴によるもので、一時は楊堅の押さえる関中地域以外の全てで反乱が起きるほどになったが、楊堅は巧みにこれを各個撃破して、北周内に於ける覇権を確固たるものとする。

同年末に隋国公から隋王へと進み、更に翌年に静帝より禅譲を受けて隋を建国する。(これ以降は楊堅を諡の「文帝」で呼ぶ)

南北統一
すでに北周武帝により南北統一への道筋は引かれていたのだが、慎重な文帝は細かい準備を丹念に進めた。

まず北の突厥に対して長城を修復して防備を固める。そして淮河と長江を結ぶ邗溝を開鑿して補給路を確保、更にかつて南朝梁から分裂し、北朝の傀儡政権となっていた後梁を併合して前線基地を作る。

そして588年、文帝は遂に陳への遠征軍を出発させる。このときの遠征軍の総指揮官が楊広(後の煬帝)であり、51万8千という過大とも思える大軍の前に、翌589年に陳の都・建康はあっけなく陥落し、陳皇帝・陳叔宝は井戸に隠れている所を捕らえられた。

ここに西晋滅亡以来、273年、黄巾の乱以来と考えると実に405年の長きにわたった分裂時代が終結したのである。

開皇の治
前後して、文帝は即位した直後から内政面に付いても次々と改革を打ち出した。

『周礼』と鮮卑回帰政策を進めた北周の路線を改めて、北斉の制度も参照しつつ改革を行った。581年には新たな律令である開皇律令を制定。この律令では晒し首・車折などの残酷な刑罰を廃し、律を簡素化してわかり易く改めたものであり、後の唐律令はほぼこの開皇律令を踏襲したものである。

官制にも大改革を加え、最高機関として尚書省・門下省・内史省(唐の中書省)の3つを置き、尚書省の下に文書行政機関である六部、すなわち人事担当の吏部・財政担当の度支部・儀礼担当の礼部・軍政担当の兵部・法務担当の都官部・土木担当の工部の6つである。その下に実務機関である九寺、またこれとは別に監察機関である御史台を置いた。

地方についてもそれまでの州>郡>県という区分をやめて、州>県の2段階に再編を行った。

そして文帝の治績の最大のものとして称えられるのが、科挙(正式には貢挙)の実行である。南北朝時代では九品官人法により、官吏の任命権が貴族勢力の手に握られていた。科挙は地方豪族の世襲的任官でなく実力試験の結果によって官吏の任用を決定するという極めて開明的な手段であり、これをもって官吏任命権を皇帝の元へ取り返すことを狙ったのである。

このように文帝によって整備された諸制度はほとんどが後に唐に受け継がれ、唐274年の礎となった。これらの文帝の治世をその元号を取って開皇の治と呼ぶ。

2009年04月19日

フランス第二帝政の樹立と崩壊

1848年革命により、七月王政は倒され、フランスでは自由主義者のラマルティーヌを首班とした臨時政府が樹立され、その中には社会主義者のルイ・ブランも入閣した。臨時政府の政策は、国立作業場設立に代表される労働権・生活権の保障や21歳以上の男子の普通選挙を認めるといったものであり、社会主義派の主張が反映されていた。4月の総選挙で社会主義派は敗退し、その後の六月暴動で労働者が国立作業場の閉鎖に対し、暴動を起こし鎮圧されると、政治の保守反動化が進展した。1848年11月の選挙でナポレオン1世の甥に当たるルイ・ナポレオンが大統領に当選した。その後、ルイ・ナポレオンはクーデターを起こし、1852年に皇帝に即位した。

ナポレオン3世の権力基盤はブルジョワジーとプロレタリアートの均衡により成立していた。内政面では国内産業を保護・育成しすることでブルジョワジーの支持を得、一方、労働条件を改善することでプロレタリアートの支持を得ていった。外交面では、クリミア戦争、イタリア統一戦争、アロー戦争の参加、インドシナ半島への進出と治世の前半は成果を挙げていったが、後半はメキシコ出兵の失敗により威信は低下、普墺戦争でプロイセンの勢力拡大を許すと、普仏戦争でプロイセンに完敗し、ナポレオン3世は失脚、アルザス・ロレーヌはドイツ帝国に帰属することになった。

その後、パリではパリ市民や社会主義者が中心になりパリ・コミューンを結成したが、ドイツ軍の手によって鎮圧された。そして、フランス第三共和政が始まることになった。

「東方問題」とクリミア戦争
1683年の第二次ウィーン包囲を境に、オスマン帝国は縮小へ向かった。1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国がハンガリーを喪失すると、ヨーロッパ諸国の間にあったオスマン帝国への危機感は徐々に薄れ、勢力の拮抗とともに安定期が訪れた。「チューリップ時代」と呼ばれたこの安定期に、オスマン帝国は西ヨーロッパ諸国との宥和政策を推進し、西ヨーロッパの文物が流入するようになった。そしてこの安定期を過ぎる頃にはヨーロッパ諸国とオスマン帝国の力関係は逆転した。オスマン帝国の弱体化につれて、その支配下にあった諸民族は独立に向けて蠢動するようになり、ヨーロッパ諸国はその動きに連動するように、軍事介入を繰り返してはオスマン領内へ勢力圏拡大をはかるようになる。

19世紀前半のヨーロッパはウィーン体制に代表される列強の保守協調によって、かろうじて利害対立を回避していたのであり、それは分裂していたイタリア・ベルギーなどの小国を犠牲にすることで贖われた勢力均衡に依拠するものだった。しかし国民主義の高まりによりイタリアに統一運動が起こり、ベルギーが独立するなど、これらの地域がもはや従属的な地位に満足しなくなると、ヨーロッパ諸国は自らの東方に存在するオスマン帝国領へ目を転じ、この地域で一国が「一人勝ち」する状況を排除することで勢力均衡を維持しようとした。こうして、オスマン帝国をめぐる紛争に当事者以外の諸国が介入し、外交によってヨーロッパの勢力均衡を実現するという構造が見られるようになった。このオスマン帝国をめぐる外交問題を「東方問題」と呼ぶようになった。

この「東方問題」は1832年のギリシャ独立戦争の際には、各国世論を喚起する形で、この戦争に諸国を介入させる結果となった。また、この問題は19世紀後半に中東欧で国際政治の枠組みを再編する契機となったが、その発端となったのが1853年にはじまったクリミア戦争である。ロシアは地中海への出口を求めて南下政策をとり、オスマン帝国領内の正教信徒の保護と聖地イェルサレムの管理権をめぐる対立を理由にバルカン半島の一部を占領した。

ロシアの地中海進出をおそれたイギリスとフランスは、オスマン帝国を支援してロシアに宣戦し、ヨーロッパ諸国どうしがヨーロッパ外で全面的な武力衝突に至る事態となった。この結果、ロシアは敗北し、黒海に艦隊をおく権利を失った。1856年の講和会議では、ナポレオン3世はナショナリズムを擁護し、オーストリアは中立を保って神聖同盟は崩壊し、ロシアは孤立した。

1880年代にいたるとビスマルクの卓越した手腕のもとに、ヨーロッパ諸国は「ビスマルク体制」という外交的安定期を迎え、この間1878年のベルリン会議によって「東方」における列強の利害関係は調整され、外交問題としては一応の解決を見たかに思われた。

またこのころにはすでにヨーロッパ諸国の利害は遠く「東方」を越えてアフリカ・東アジアを含めた全世界規模で調整されるようになっており、「東方問題」はその重要性を相対的に減じていた。しかしながら、このことはバルカンの民族問題の解決を意味しておらず、バルカン半島は相変わらず「ヨーロッパの火薬庫」であり続けた。また、内外からの攻撃にさらされたオスマン帝国は「瀕死の重病人」と呼ばれるようになった。

イタリアの統一
ローマ帝国が滅亡して以来、都市国家が乱立していたイタリア半島でも統一の機運が高まっていた。1848年のローマ共和国失敗後、イタリア統一を主導したのは、ピエモンテのトリノを首都に定めていたサルデーニャ王国だった。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、カミッロ・カヴールを1852年に首相に迎え、王国の近代化を推進した。自由主義的な憲法を制定し、教育の充実、工業化の推進、交通網の整備を行った。ただ、独力の近代化だけでは、イタリア統一をすることもままならず、当時の大国との同盟関係を締結することが必要となった。クリミア戦争では、イギリス、フランスと同調する形で、ロシアに宣戦布告し、血を流すことによって、今後のイタリア統一に向けての下準備とした。

プロンビエールの密約を1858年に結ぶと、サルデーニャは対オーストリア戦争に邁進。経済的に豊かなロンバルディア、中部イタリアのパルマ、モデナ、トスカーナを次々と併合した。中部イタリア進出の際には、サヴォイア、ニースをフランスに割譲した。同盟国フランスに見返りを捧げる形でありながらも、半島統一を推進していった。

一方、赤シャツ千人隊と呼ばれる私兵を用いて、イタリア統一に貢献したのがジュゼッペ・ガリバルディである。1860年、両シチリア王国を滅ぼすとガリバルディは、サルデーニャ王国に征服地を献上し、自らは表舞台から退場した。1861年、イタリア王国の建国が宣言され、ヴェネツィア及び教皇領を除くイタリア半島の統一が達成された。1866年の普墺戦争の際には、プロイセン側に立ち、オーストリアと交戦状態に入り、ヴェネツィアをイタリア王国に組み入れることに成功、1870年の普仏戦争でフランスが敗れるとローマに進駐していたフランス軍が撤退したため、ローマ占領に成功した。ローマ占領は、イタリア国家とローマ法王の断絶を意味し、この状態が改善されるのは、20世紀のラテラノ条約を待たなければいけなくなった。当時の教皇ピウス9世は、自らを「バチカンの囚人」と称した。

その後、統一イタリアは、国内の南北格差(ピエモンテやロンバルディアが所属する北部地方が経済的に豊かであり、その状況は21世紀になった今も変わっていない)を内包しつつも、植民地獲得競争に参入していった。その対象は、ソマリアやリビアに向けられていった。また、未回収のイタリアと呼ばれる地方が残っていたため、三国同盟を普仏戦争後、オーストリアと締結したとはいえ、常に国境問題を抱えていたため、第一次世界大戦の際のイタリアの連合国側参戦へとつながる原因となった。
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ドイツ帝国の成立とビスマルク体制
ナポレオン戦争はナショナリズムをヨーロッパの諸民族に扶植した。その中で、ドイツの各領邦国家は国内関税、領邦国家独自の通貨、度量衡が存在した。その上、産業革命で経済的に優位に立っているイギリスからの安価な軽工業の製品がドイツにも流入していくにつれて、ドイツにおいても統一国家の樹立が望まれた。1833年経済学者フリードリッヒ・リストの尽力によりドイツ関税同盟が結成された。また、鉄道の建設が1835年より開始され国内市場の統一への望みに拍車を掛けた。1840年代には鉄と石炭の需要が増加し産業革命がドイツにも進展していった。

なお、ドイツにおける産業革命はドイツ関税同盟などを背景に経済的な領域を確立したうえでの工業化だった。以下のような諸特徴を有する。

銀行資本の出資による積極的な拡張投資:ハイペースな事業拡大
独占企業の発生:シェアと利潤の確保
研究に基づく技術革新:科学者との協力で技術を生み出す
そんな中、1861年ヴィルヘルム1世がプロイセン国王に即位した。彼は、ユンカー出身のオットー・フォン・ビスマルクを宰相に採用した。ビスマルクはドイツの統一の為に武力による統一が不可欠とした鉄血政策を採用し、軍備の増強を行った。ドイツ統一のためにはオーストリアの存在は目障りでしかなかった。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題を発端としたデンマーク戦争を皮切りにプロイセンは領土を拡大、1866年普墺戦争でオーストリアに7週間で決着をつけると北ドイツ連邦の結成を承認させ、オーストリアのドイツへの干渉を排除することに成功した。スペイン王位継承問題でビスマルクはスペイン国王にプロイセン王家を即位させ、フランスの挟撃を画策したが、プロイセンの拡張を快く思わなかったフランスのナポレオン3世が反発し失敗に終わった。最終的はエムス電報事件を発端とした普仏戦争でプロイセンはフランスに勝利し、1870年ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝として即位しドイツ帝国がここに成立した。
ドイツ帝国は、諸邦の自立性を認める連邦制の立憲君主国だった。経済発展にささえられ、ビスマルクは重化学工業と農業の利害を調整し、国家が化学をはじめとする自然科学や医学、軍事技術の開発を積極的に助成したので、ドイツの諸学問は当時の世界の最高水準に達した。ビスマルクはまた、内政面では、労働者保護の為の社会保障政策を採用する一方、社会主義者鎮圧法で台頭してきた社会主義者を弾圧するといった「アメとムチ」の政策を採用した。外交面では、フランスを孤立させた形でのヨーロッパの勢力の均衡を図る外交政策を推進し、1873年にはオーストリア、ロシアと三帝同盟を締結したが、1877年露土戦争に勝利し南下政策を強めるロシアの勢いを挫くために、1878年ベルリン条約を締結し、三帝同盟は瓦解した。1882年に三国同盟をイタリア王国、オーストリアと締結し、バルカン半島に勢力拡大を図るロシアと対抗していくこととなった。

ヴィルヘルム1世没後、フリードリヒ3世が皇帝に即位したがわずか3ヶ月で死去したため、ヴィルヘルム2世が後を襲った。彼は、ビスマルクの老獪な外交を理解できず、ビスマルクと対立、ビスマルクは帝国宰相の地位を辞任した。その後、ヴィルヘルム2世の3B政策が外交の指針となったが、これによりイギリス、フランスと対立が鮮明になり最終的には第一次世界大戦につながっていく。

2009年04月04日

五ツ嶋奈良男

五ツ嶋 奈良男(いつつしま ならお、1912年12月22日 - 1973年5月6日)は、長崎県南松浦郡奈良尾村(のち奈良尾町、現:新上五島町)出身の大相撲力士。最高位は大関。現役時代は出羽海部屋に所属。本名は金崎伊佐一。四股名は出身地の五島列島に、下の名は生まれた町の名に因んでつけたものである。現役時代の体格は173cm、112.5kg。得意手は左四つ、巻き落とし、下手捻り。

来歴 [編集]
地元で漁師をしていたが、横綱常ノ花の引退興行で見出されて出羽海部屋に入門し、1930年5月場所に初土俵を踏む。

あまり出世の早いほうではなかったが、1936年5月場所に入幕を果たすと、力も安定し、上位で活躍した。「けいこ場横綱」の異名をとるほど稽古では強く、同輩の安藝ノ海が歯が立たないほどであったという。

1940年1月場所、はじめて双葉山に勝って11勝をあげて、翌場所小結を飛び越し関脇に昇進、ここで再び双葉山を破り、終盤まで安藝ノ海と優勝を争い、13勝2敗の好成績をあげ、場所後に安藝ノ海とともに大関昇進を果たした。

なお横綱昇進後の双葉山に連勝したのは五ツ嶋と照國のみである。しかし、両膝の故障で新大関の1941年1月場所を途中休場、翌5月場所も終盤に6連敗して千秋楽に関脇照國に敗れて負け越し、照國と入れ替わるように次の1942年1月場所には関脇に陥落、結果的に大関在位は2場所で終わり、その場所を全休してそのまま廃業してしまった。

後の横綱佐田の山晋松が五島列島出身の五ツ嶋の活躍に憧れ、角界入りを目指したことを語っている。

廃業後は料理店を経営し、経済的には恵まれていたという。日本酒1日5升は呑むという酒豪でもあった。

1973年5月6日に逝去。享年62(満60歳没)。

主な成績 [編集]
幕内在位:12場所(うち大関2場所、関脇2場所)
幕内通算成績:86勝58敗20休 勝率.597
大関通算成績:12勝13敗5休 勝率.480
金星:1個(双葉山)

ナビリベリア コレポン テニス ヱスビー アント キック ブルマン 女性の生活 チップ スターフ ゼネス くちばい ノパン たらふく ミック チャー プレミ クォーザ ラップ バッイグ パート フォー エストール カーシェア Sぼうおく チアダンス フォース ゼキショウ ブレイブ ヒップボーン ドーム ブリース サボテン リンリレー ロースター バイメタ モルモッ ダバオ ジュネーブ シオニズム グッド ニュー ガイド レター ガーリ 青梗菜 ファック オールス ジャスパー じゃじゃ

2009年03月20日

オホーツク (列車)

オホーツクとは北海道旅客鉄道(JR北海道)が札幌駅?網走駅間を函館本線・宗谷本線・石北本線経由で運転する特別急行列車。JRではロシア語由来の名称が愛称になっている唯一の列車である。

運転本数 [編集]
1日4往復。
冬季流氷観光シーズンには、リゾート車両による臨時列車も運行される。
担当車掌区
(上下とも)旭川車掌所

所要時間 [編集]
札幌駅?遠軽駅間
約3時間30分
札幌駅?北見駅間
約4時間30分
札幌駅?網走駅間
約5時間30分

使用車両 [編集]
キハ183系気動車
冬季流氷観光列車の「オホーツクの風」はキハ183系5200番台「ノースレインボーエクスプレス」を使用し、編成が異なる。

編成 [編集]
全列車・全座席禁煙
記号凡例
G=グリーン車座席指定席
指=普通車座席指定席
自=普通車自由席
※遠軽駅で進行方向が変更する。
キャン ふかがわ プルート てっさく はだいろ バーモ ナローボ シーケン ぱぱいあ リナリア デッド トッカータ あまぎ セレクション チャート マグマ クサノオ レンチ ブッキ カネノナル フェース プロップ くけい テク ぶうぶう ゴロ シーソー おはじき ナップ タイダイ ワンセ タイピン マスコット ロード ワイマ ニチニ コカトリ ダナキ フリーラ ホンコン ミング ノーマ タミフ リトル バッテ スクエア カアト イソ次世 ミー スター

停車駅 [編集]
札幌駅 - 岩見沢駅 -(美唄駅) -(砂川駅) - 滝川駅 - 深川駅 - 旭川駅 -上川駅 -(白滝駅) -(丸瀬布駅) - 遠軽駅 - 生田原駅 - 留辺蘂駅 - 北見駅 - 美幌駅 - 女満別駅 - 網走駅
(括弧内)の駅は一部の列車のみ停車する(オホーツクの風は2008年度運行時)。
美唄駅 - 1号、7号、2号、8号、オホーツクの風
砂川駅 - 1号、7号、2号、8号、オホーツクの風
白滝駅 - 1号、7号、2号、6号
丸瀬布駅 - 1号、6号を除く全列車

2009年03月05日

馬頭観音

馬頭観音(ばとうかんのん / めづかんのん)、梵名ハヤグリーヴァ (??????? [hayagriiva])は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一尊にも数えられている。観音としては珍しい忿怒の姿をとる。

三昧耶形は白馬頭、三角形の中の棍棒。種子(種字)はカン(haM)。

梵名のハヤグリーヴァ(音写:何耶掲梨婆)は「馬の首」の意である。これはヒンドゥー教では最高神ヴィシュヌの異名でもあり、馬頭観音の成立におけるその影響が指摘されている。 他にも「馬頭観音菩薩」、「馬頭観世音菩薩」、「馬頭明王」などさまざまな呼称がある。衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩である。

転輪聖王の宝馬が四方に馳駆して、これを威伏するが如く、生死の大海を跋渉して四魔を催伏する大威勢力・大精進力を表す観音であり、無明の重き障りをまさに大食の馬の如く食らい尽くすという。師子無畏観音ともいう。

他の観音が女性的で穏やかな表情で表わされるのに対し、馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した忿怒(ふんぬ)相である。このため、「馬頭明王」とも称し、菩薩部ではなく明王(みょうおう)部に分類されることもある。 また「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。さらに、馬のみならずあらゆる畜生類を救う観音ともされ、六観音としては畜生道を化益する観音とされる。

像容は前述のような忿怒相で体色は赤、頭上に白馬頭を戴き、三面三目八臂(額に縦に一目を有する)とする像が多い。経典によっては馬頭人身の像容も説かれるが、日本での造形例はほとんどない。一面二臂、一面四臂、三面二臂、三面六臂、四面八臂の像容も存在する。立像が多いが、坐像も散見される。頭上に馬頭を戴き、胸前で馬の口を模した「馬頭印」という印相を示す。剣、斧、棒などを持ち、また蓮華のつぼみを持つ例もある。剣は八本の腕のある像に多い。

石川県・豊財院の木造立像、福井県・馬居寺(まごじ)の木造坐像は平安時代の後半にまで遡る作例である。福岡・観世音寺の木造立像は高さ5メートルに及ぶ大作で、日本の馬頭観音像の代表例と言える。京都・浄瑠璃寺の木造立像は、鎌倉時代の南都仏師らの手になる作例である。
スノー モヘア サイトシス ネグロ ノンフ バルカ バチス ほうじゅん フラー レンズフ ラリア だるま ネコヤ ストリ ステッキ クスノキ サーベル シシウド スタジ レトリック ハイカラ マジッ ローレル シンデレ 交響曲 ブランク ウバイ リアル ブレス ゲイン ガイドヨニ ギアナユ パール ずきん テロップ パイレ ロコ リスボ ジャンク 冬中夏草 女神 ジャンプ亭 ケープ ノーダ オーバー フィアン イカの石 コロラド おみたま おもちゃか

また近世以降は、馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音像を建てることが多くなった。この場合、像ではなく単なる「馬頭観音」の文字を彫っただけの石碑であったりする。

なお、現代の日本においては競馬場の近くに祀られていて、レース中に亡くなった馬などの供養に用いられている場合もある。

2009年02月14日

大悪司

男性中心の社会であったニホンが女性上位主義を掲げる新興国家ウィミィとの戦争に敗れて以降、オオサカにはウィミィ軍が進駐し市長や各種団体のトップは女性で占められていた。

戦地から復員した山本悪司は、実家でありヤクザ組織でありオオサカの地域管理組合である「わかめ組」に向かっていた。しかし組は既に女性中心の組織に変貌しており、悪司は力ずくで追い出されてしまう。 腹の虫が収まらない悪司は弱小の地域管理組合「奉仕青年団」をのっとり、奉仕青年団を率いてのわかめ組奪回とオオサカ制圧を決意するのであった。
インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア

山本悪司(やまもと あくじ)
声:松田たろう
わかめ組前代表の嫡子。従軍し南地に派遣されていたが、終戦によってオオサカに帰還する。祖父、山本一発からヤクザの帝王学を叩き込まれて育ち、文と武と色を兼ね備えた極道。その征服欲はオオサカに収まりきらない程に強大。
ニホン軍における最終階級は上等兵。

ヒロイン
白民華(はく みんか)
声:藤小雪
悪司の想い人。中華料理屋「水陸両用」で働く少女。悪司のことは好きだがカタギの世界で生きていたためその生き方に納得できない。
彼女をヒロインにした場合、売春で資金を稼ぐことができなくなる。
岳画殺(たけが さつ)
声:高奈ゆか
悪司の叔母。悪司より年下であるが、れっきとした悪司の祖父の娘。動物が好き。爆発物や火器を使いこなし戦闘力は高く、将来は悪司をも上回り世界を制覇する事の出来る器らしい。条件を満たすとメインヒロインとしても登場する。処女膜強靭症。ランス6にも追加パッチを当てることで登場するが、攻撃力が高い代わりに使い勝手の悪いキャラになっている。
加賀元子(かが もとこ)
声:岩田由貴
わかめ組幹部の娘。女性上位主義が幅を利かせる時代になってからは父に代わって幹部を努める。悪司とは幼なじみ。
OVA版(本編)ではメインヒロインを務めた。
乃木喜久子(のぎ きくこ)
声:佐藤詩央
戦犯として謹慎中の乃木大将にとっては、目に入れても痛くない孫娘。武家の妻タイプの大和撫子。
プリシラ・ヴァドル(ぷりしら ヴぁどる)
声:藤村亜季
ウィミィ人の空軍士官(パイロット)。戦地で悪司と出会い、抱かれた経験が忘れられない。
アンリ・ペロリ(あんり ぺろり)
イタリアンマフィアの娘。イタメシ屋「ムッソリーニ」で働いている。条件を満たすとメインヒロインとして登場する。悪司の想い人だが………。

わかめ組関係者
神原夕子(かんばら ゆうこ)
声:イナリヴィヴィヴァン
悪司がこましのテクニックを学んだ女性。なんとなーく超強運の持ち主。彼女が死ぬ時は世界の命運が尽きた時と言っても過言ではない。
大杉剛(おおすぎ つよし)
声:体田肉男
かつての悪司の教育係。実直、真面目を絵に描いたような男。ヤクザではあるが義侠と言うに相応しい行動をとる。孤児であり出生の秘密があるようだが、ゲーム中では明確に語られることはない。その正体はおそらく地底人(?)
島本純(しまもと じゅん)
声:ワッショイ太郎
悪司の参謀的存在。組織の情報を一手に担う。暗い過去を持ち、忠誠ではなく自身の興味のために悪司の下へ走り部下になる。
タマネギ(たまねぎ)
声:一条和矢
悪司傘下の娼館で働く調教師の男。本名は不明、由来は常に生タマネギを囓ってる事から。容貌は最も怪しいが、調教師三人の中では比較的マトモ。フナイにアダルトグッズ屋を営む兄「ニンジン」が居るのだが、兄弟揃ってこの風情である。ランス6にもシステム的に重要なキャラ(本作とは別人)として登場するが、なぜか長髪の持ち主になっている。
小原小春(こはら こはる)
声:戸渡有里
悪司傘下の娼館で働く調教師の女。実はれっきとした才女だが、基本的に女を辱めることが好き。
石原千手(いしはら せんじゅ)
悪司傘下の娼館で働く調教師の少年。三人の中では陵辱色が強い調教を担当する。熟れかけからの女が好きらしい。外見と中身の違いは三人の中で最も激しい。
加賀太郎(かが たろう)
元子の父。わかめ組の中でも古参の幹部で、義に厚いが情に薄く、元子を罠にかける。悪司の父、百発と親友で、戦死報告が来た今も生存を信じている。
森田愛(もりた あい)
任侠やヤクザに心惹かれるお馬鹿っ子。外見や言動からは想像もできないがれっきとしたわかめ組の幹部。ハニーに好かれる。
市橋蘭(いちはし らん)
声:海原エレナ
敵対勢力「わかめ組」の代表。悪司の祖父、山本一発の愛人でもある。ウィミィの占領政策でわかめ組の代表となる。一発で逝ってしまう量の精力剤を入れられたデカオに死ぬまで犯される。
素敵医師(すてきいし)
シコクからやってきたわかめ組の用心棒。元医師、現在は重度の麻薬中毒者。シコクを地獄の惨状にして指名手配されている。蘭に呼ばれて参上する。

市議会
中山明里(なかやま あかり)
オオサカの市長。だが市長とは名ばかりで元々はウィミィの占領政策で失脚した市長の妻、本来は主婦。実務は秘書に任せっきり。
調教シーンではトイレでホームレスに犯される。売春では娘と一緒に買われ、娘と一緒に性交をする。

那古教
由女(ゆめ)
声:内野ぽち
敵対勢力「観世那古真燈教」の教祖。過去の記憶を失っているが…。

桃山組
桃山リンダ(ももやま りんだ)
声:佐藤詩央
敵対勢力「ピーチマウンテン」(桃山組)の代表。幼児だがかなり頭が切れ、末恐ろしい少女。口癖は「ちゅるせ」
支倉ハイネ(はせくら はいね)
桃山家に仕える支倉家の当主。リンダの執事兼用心棒。武と文の両方において凄まじい力を見せる。

高山組
高山はみ(たかやま はみ)
声:宮本千鶴
敵対勢力「高山組」の組長の娘。わがままから抗争を引き起こす。家族から溺愛されている。

ウィミィ
シーネル・ブラウン(しーねる ぶらうん)
声:平コスモ
敵対勢力「ウィミィ」進駐軍の司令官。その他のウィミィの例に漏れず徹底した女尊男卑主義者。
イハビーラ・Me(イハビーラ メッコー)
ウィミィのマッドサイエンティスト。元男性。

その他
山本一発(やまもと いっぱつ)
悪司の祖父。多数の女性と愛を育み、未だに悪司の血縁者を増やし続けている。愛車は丸太バイク。ランス6にもやりこみ要素の挑戦ボスとして、また岳画殺追加パッチのシナリオに殺を迎えに来る役として登場する。
山本百発(やまもと ひゃっぱつ)
ゲーム中では名前が出るだけ。悪司の父、一発の息子。悪司に比べると優しい男だったらしく幼い悪司に猫を飼わせ情を培わせようとしたりもしていたらしい。
積極的な悪司と違い慎重派だったらしくそれで丁度バランスが取れていたらしい。

2009年01月27日

F-101 ヴードゥー

F-101 ヴードゥー (Voodoo) は米国マクドネル社が開発した双発の超音速戦闘機。初期設計では爆撃機の護衛用であったが、その後地上支援や写真偵察用にも転用された。アメリカ空軍の他にカナダ空軍が広く採用し、台湾空軍も偵察機型を少数機導入した。当初計画とは異なり、核攻撃任務兼任の偵察機および大型迎撃機として実用化されたものであり、1954年の初飛行の後、偵察機型は1960年代からベトナム戦争にも投入され、アメリカ空軍・カナダ空軍の迎撃機型は北アメリカ大陸の防空にあたった。1985年までに全機が退役している。

アメリカ空軍戦略航空軍団(SAC)は1951年1月に長距離戦闘機の開発要求を各社に出した。マクドネル社は開発中止となった長距離戦闘機の試作機 XF-88(1948年10月20日初飛行)を大幅に改良した案を提出し、それが受け入れられ、F-101の開発が開始された。なお、F-101の名称が付けられたのは1951年11月のことである。試作機YF-101Aは1954年9月29日にエドワーズ空軍基地で初飛行した。初飛行で音速突破を記録している。

初飛行の日に戦略航空軍団の長距離戦闘機計画は中止が決定した。しかし、戦術航空軍団(TAC)より戦闘爆撃機として、またF-102戦闘機の性能の低さに失望していた防空軍団(ADC)より長距離要撃機として関心が示されたため、設計を変更し引き続き開発は続行された。

低翼配置の後退翼の機体で、テールに尾翼があるというのは、XF-88と同じであるが、胴体は3.2m延長され、尾翼面積も拡大している。水平尾翼の位置も垂直尾翼基部から垂直尾翼上部に移されている。機関はジェットエンジンの双発であり、インテークは主翼付け根に、ノズルは胴体後部(テールの付け根)にある。

本機は登場した当初はマッハ1.7を誇り、当時の最高速の戦闘機であったが、程なくしてマッハ2級の戦闘機が続々と登場して、一見して速度性能では平凡な機体になってしまった。ただ本機の最高速度がマッハ2に達しなかったのは、インテークの形状が固定式であるためであり、J57エンジン双発のパワーは、決して後に登場したマッハ2級機に劣るものではない。そもそも超音速機と言えど、そうそう超音速が出せるものではなく(アフターバーナーを使用する事によりたちまち燃料を消費してしまう)、マッハ2以上の最高速度に大した意味がある訳ではない。本機がマッハ1級でありながら、高速偵察機としてベトナム戦争で活躍した実績が、その事実を如実に物語っている。80年代以降、戦闘機の最高速度は頭打ちになり、むしろ低下していると言える状況であるが、本機はある意味その傾向を先取りしていたとも言える。

一方で、水平尾翼をT字配置として垂直尾翼の上に持ってきた設計は、大失敗であったと言える。迎え角を大きく取ると主翼の後流が水平尾翼の効果を無くし、急激な機体の頭上げ(ピッチアップ)を生じる事となった。そのためピッチ・コントロール・システムが付加され、機体の運動を制限して対処している。そのため高翼面荷重の設計と相まって、本機の運動性能はあまりよくない。要撃機や偵察機としてはともかく、本来の開発目的であった戦略航空軍団の長距離戦闘機(爆撃機護衛、あるいは爆撃機の安全のための敵国上空の制空権確保が任務であり、格闘戦能力は必須である)には全く向いていなかったと言える。

防空軍団では完全自動要撃戦闘システムを採用した F-106に対し、本機をパイロットのマニュアル操縦を重視した要撃機として位置づけていた。F-89戦闘機の後継機として主にアラスカの部隊で使用された。広大な北極海をパトロールするには長い航続距離が必要で、また半自動式防空管制組織(SAGE)の十分な支援を受けられない環境であったので、本機のような戦闘機がF-106とは別に必要であった(F-106があまりに高価過ぎた事も理由である)。要撃機型が全て複座なのも、よりパイロットの能力を重視した結果である。

戦術航空軍団では戦闘爆撃機として当初採用されたが、後に開発された偵察機型のほうが好評で、ベトナム戦争前半の主力偵察機として運用された。なお偵察機型は固定武装は有さないが、後の改装で核爆弾投下能力は有するようになっていた。強行偵察という任務の過酷さゆえに損耗は激しく、F-105と並んでベトナム戦争で使い尽くされた機体となった。空軍州兵(ANG)の機体まで徴用されてベトナム戦争に送られたため、穴埋めとして戦術航空軍団で第一線を退いた戦闘爆撃機型が偵察機型に改修されて空軍州兵に配属された。
パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

最後までF-101を使用したのはカナダ空軍であり、1985年までには全機が退役した。

各型
YF-101A:試作機。
F-101A:初期生産型。戦闘爆撃機。
NF-101A:GEJ79ジェットエンジンテスト機(1機改装)
YRF-101A:機首にカメラを積んだ試作偵察機型(製造機数2機)。
RF-101A:写真偵察型。
F-101B:マクドネル社がF-109の名称を提案していた機体。機銃を廃止し、追跡レーダーとミサイルのみを武装した複座要撃型。
CF-101B:カナダ空軍型。
EF-101B:カナダ空軍で用いられた電子戦機。模擬敵機役。1機改装。
RF-101B:カナダ空軍偵察機型
TF-101B:複座練習機型。
F-101C:単座戦闘機型。
RF-101C:F-101Cの写真偵察型。
F-101D:GE社エンジン計画機。
F-101E:GE社エンジン計画機。
F-101F:複座練習機型。
CF-101F:カナダ空軍向け飛行転換訓練型。
TF-101F:TF-101BをF-101F仕様に改修したもの。
RF-101G:F-101Aを空軍州兵の偵察型に改修したもの。
RF-101H:F-101Cを空軍州兵の偵察型に改修したもの。

YF-101A
試作機。29機製造。

F-101A
初期生産型。戦略航空軍団の長距離護衛戦闘機として計画されたが、戦術航空軍団の単座戦闘爆撃機(WS-105)として実用化が図られた。M39 20mm機銃4門を機首に装備し、Mark 28やB43などの核爆弾1発のほか、AIM-4ファルコン空対空ミサイルを搭載する。空中給油装置はプローブ式、ブーム式の双方に対応する。48機製造。1957年部隊配備開始。

RF-101A
戦術航空軍団向けの偵察機(WS-105L)。試作機YRF-101Aは1956年5月10日初飛行。機首および胴体部に複数の偵察カメラを装備。35機製造。1957年部隊配備開始、1971年退役。台湾空軍にも1959年から供与され、1960年代に中国大陸本土の偵察飛行を実施し、被撃墜も記録している。台湾の機体は1973年に退役した。